つぎはぎテレビジョン



テレビがつぎはぎなのはあたりまえで、決められた時間内に収めたり、都合の悪いところを隠したりするためにやる。切って貼って、消したり、音楽をつけたり、左下の小さな窓の中で手の通訳をつけたりする。

つぎはぎ、つぎはぎの繰り返しでひとつのものに見える。記憶のようなものだ。カットされた部分はいくら探しても出てこなかったりする。もしくはエンディングにNG集として流されたり。人生の最後に、走馬灯がNG集だったら、1番恥ずかしいところで生き返りそうである。


昨日も大学に行かなかったのは迫り来る未来に耐えられないからだ。月経で眠気が収まらないからだ。冬は日照時間が短く、抑うつ状態になりやすいからだ。我は冬季うつなのだ。どれも考えてみたが言い訳として偏差値が低い。言い訳偏差値35くらいだ。もう出席回数が足りてるかどうかがさっぱりわからなくなった。前期のやる気はオカリナとともに旅に出てしまったのだ。谷に春が来るまで帰ってこない。やる気のないままできるだけのことをするしかない。

誰も彼もがひとつも楽しくない、少人数ゼミというものが不快、不快。

的外れなことばかり申してすまない、学もなければ計算もできぬ。

相手の最も欲しい言葉を言い当てるのがこんなに難しいなんてね。いや、前から努力はしているのだが、この努力がそれと認識したのはつい最近だった。

未来と過去をあまねく想いめぐらせつくづく感じるのはこんなことを努力したかったわけじゃないということである。我は神の子であり、こーんなーも〜ののために産まれたんじゃな〜いということである。

ああもっと他にあった、歌を歌ったり絵を描いたり、ギターを鳴らしたり踊りを踊ったりすることを頑張っている未来。なるほどこれがモラトリアムか。とレミオロメンに立ち戻る。


カーテンがないためシャッターを下ろしっぱなしの、光の差し込まないあの家を思い出す。なんとしてもカーテンを買ってシャッターを開けさせたい。ダンボールも片したい。バルサンも炊きたい。

冬の朝、羽毛布団の上に厚手の毛布をかけて、胎児の格好をしてうずくまっていると、先に起きた母がカーテンを開ける。鈍色の暖かい陽射しが部屋の奥まで侵入し某のまぶたをちょんちょんとつつくと、あたたかさのようなものが全身に染み渡る。あの感覚を味あわせてくれない部屋の主は鬼である。いや、ただの貧乏である。


12月10日の花は赤いツバキらしい、「控えめな愛」、素晴らしいネ


暇な時に文章を、自分への手紙として。