カレンダーガール




アイカツ!を7話まで観た。3期も同時進行で観てる。清い。いちごちゃんたちは中学生だからか「思春期によくある承認欲求」というものとは無縁の動機でアイドル活動、つまりアイカツを日々励んでいるようにみえる。純粋という言葉には常々疑問があるが、(「純粋に日本人」とか)彼女たちはマジで純粋に好きなアイドルに憧れていると思う。清い。ほんとうに。
承認欲求は誰しもが持ってるであろうし、美人がそれを表に出してもたいして醜くないのは事実だが、やはりあまりにも見て取れるようであると「きたない」ような気がしてしまうのはなぜだろう。キメ顔自撮りは美人でもキツイ。ドロドロとした悪いものが顔に張り付いているような気がする。その真っ黒な目でこっちを見ないでくれ。と思う。ブスの嫉妬なのだろうか。仕事でアップしているのは全くなにも思わないが。あれは自分自身が売り物だからかな。

しかしエリーより清いものもない。エリーは清い。女優のシャーロットさんも清く見えてしまうくらい清い。というか多分シャーロットさんも相当清い。彼女が泣くシーンはほんとうに毎回演技とは思えない。マジで。毎回つられて泣いてしまう。ここもしかしたら泣くシーンじゃなかったんじゃ?というときもエリーは泣いている。エリーはひとの心の動きにとても敏感なのだろうな。エリーのまえだと嘘もつけなさそうだ。エリーはアニメとちがって、ピン子に嫌悪感を示したり、マッサンにしびれを切らしてブチ切れるシーンも描写されているのに、なぜ
あんなにも清いのだろうか。曲げない信念のせいだろうか…。
まああのドラマは正直マッサンも清い。ひた向きである。ひた向きというのは実に清い。美しい。ひた向きであれば、まわりのひとは背中をそっと、あるいは勢い良く押し出してくれるものなんだな。美しいとみんな親切であるから。美しいというのはなにも外見だけではないのであるよな。わかってはいるんだが。

smoke



シャムキャッツずっと聴いている。この辺の邦楽バンドは辛い気持ちにならずに聴けていい。マックのライブすごく楽しかったので今日とても久しぶりにギターを弾いてみたけど上手にも下手にもなっていなかった。コードチェンジがたどたどしくなったかもしれない。歌ってみたけどとても楽しかった。曲が作れるかもしれないと思ったけどやっぱりメロディセンスもコードの知識も才能もないみたいだった。自分が歌いやすいものを作ればそれでいいと思うんだけどなあ。うまくいかない。頭の中で音楽が鳴っているタイプではないし、そもそもものを作るのは昔から苦手だったな。とか思った。徒に時が経っても音楽の才能は芽生えないし人間はそんなに変わらないんだなぁと思った。たぶん、認められるものや受け入れられるものが増えているだけなんだろう、とおもう。それはとても大事なことだし、それによって産まれる変化は大切だけど、それは積み重ねたらスラム育ちのこどもが大統領になれるということではないよね。ネコがトラになるわけじゃないんだよね。

肉体と精神はともに脳が司っているわけだし、肉体の変化は精神の変化につながるんじゃないかなーと思って、今日もお母さんと一緒に筋トレしたり歩いたりした。とても楽しい。けれどさっきポテチを食べた。一生このままの体型はいやだなぁ。明日も行かなくちゃ。負荷かけなくちゃな。ああ英語話せるようになりたいなぁ。明日からまた勉強はじめよう、やっておいて損なんか何もないんだから。

そう、映画も観たいから、でも一回ディスカスは解約しないとダメだ、最近タガが外れてるなぁ、まぁなんとかなーるさー




つぎはぎテレビジョン



テレビがつぎはぎなのはあたりまえで、決められた時間内に収めたり、都合の悪いところを隠したりするためにやる。切って貼って、消したり、音楽をつけたり、左下の小さな窓の中で手の通訳をつけたりする。

つぎはぎ、つぎはぎの繰り返しでひとつのものに見える。記憶のようなものだ。カットされた部分はいくら探しても出てこなかったりする。もしくはエンディングにNG集として流されたり。人生の最後に、走馬灯がNG集だったら、1番恥ずかしいところで生き返りそうである。


昨日も大学に行かなかったのは迫り来る未来に耐えられないからだ。月経で眠気が収まらないからだ。冬は日照時間が短く、抑うつ状態になりやすいからだ。我は冬季うつなのだ。どれも考えてみたが言い訳として偏差値が低い。言い訳偏差値35くらいだ。もう出席回数が足りてるかどうかがさっぱりわからなくなった。前期のやる気はオカリナとともに旅に出てしまったのだ。谷に春が来るまで帰ってこない。やる気のないままできるだけのことをするしかない。

誰も彼もがひとつも楽しくない、少人数ゼミというものが不快、不快。

的外れなことばかり申してすまない、学もなければ計算もできぬ。

相手の最も欲しい言葉を言い当てるのがこんなに難しいなんてね。いや、前から努力はしているのだが、この努力がそれと認識したのはつい最近だった。

未来と過去をあまねく想いめぐらせつくづく感じるのはこんなことを努力したかったわけじゃないということである。我は神の子であり、こーんなーも〜ののために産まれたんじゃな〜いということである。

ああもっと他にあった、歌を歌ったり絵を描いたり、ギターを鳴らしたり踊りを踊ったりすることを頑張っている未来。なるほどこれがモラトリアムか。とレミオロメンに立ち戻る。


カーテンがないためシャッターを下ろしっぱなしの、光の差し込まないあの家を思い出す。なんとしてもカーテンを買ってシャッターを開けさせたい。ダンボールも片したい。バルサンも炊きたい。

冬の朝、羽毛布団の上に厚手の毛布をかけて、胎児の格好をしてうずくまっていると、先に起きた母がカーテンを開ける。鈍色の暖かい陽射しが部屋の奥まで侵入し某のまぶたをちょんちょんとつつくと、あたたかさのようなものが全身に染み渡る。あの感覚を味あわせてくれない部屋の主は鬼である。いや、ただの貧乏である。


12月10日の花は赤いツバキらしい、「控えめな愛」、素晴らしいネ


暇な時に文章を、自分への手紙として。